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スターリング・モス卿 逝去:マセラティ、そしてモータースポーツ界にとっての大きな喪失【マセラティ ジャパン】
2020年4月13日
モデナ発 ― スターリング・モス卿とマセラティとの結びつきは非常に強いものでした。モスはマセラティのクルマをどう駆るべきかということについて誰よりも適切な解釈をすることができた偉大なチャンピオンの一人でした。彼は速いことはもちろん、エネルギーに満ちた度量の広いドライバーで、明るくダイナミックな性格の持ち主でした。
モスのモデナへの最後の訪問のひとつは、マセラティの100周年を祝うイベントでした。ミュゼオ・エンツォ・フェラーリに展示された、マセラティの名車の数々を目にしたモスは、一つ一つのモデルを事細かに説明していました。「250Fは高速マシンとしてすべての動作においてドライバーを満足させたモデルだった。300Sは素晴らしいバランスと並はずれた運転のしやすさを備えた一台。そしてこのふたつの特長を併せ持ったのが、Tipo 61 バードケージだ」
事実、250Fは彼のお気に入りのシングルシーターのモデルでした。1956年5月13日にモナコグランプリで彼はこのモデルとともに彼の生涯でもっとも美しい勝利のひとつを挙げています。シャーシナンバー2522のマセラティで、彼はレースを終始リードし続けたのです。同年モンツァで行われたイタリアグランプリにおいては、コリンズがファンジオのタイトルのために託したランチア フェラーリを破ってモスの250Fが勝利しています。こうした理由からモスは250Fを非常に誇りに思っており、プライベートコレクションに長らく保管されていました。
スターリング・モス卿は1929年9月17日にイギリス ロンドンに生まれ、同地で生涯を過ごしました。彼の父親 アルフレッドE・モスは1924年にインディアナポリス500を16位で終了、妹のパットもいくつかのラリーに参戦をしていました。
モス家にとってレーシング活動というのは定めのようなものだったのかもしれません。F1においては1951年から1961年にかけて66のグランプリに参戦、うち16のレースで勝利をしています。しかし彼はその強さをもってしても1955年、1956年、1957年、1958年と4年連続で2位に甘んじています。モスが無冠の帝王と呼ばれるゆえんです。そして彼はまたサーキットだけではなく公道レースにおいても伝説を残しています。1955年のミッレミリアでは10時間7分48秒で制覇、セブリング12時間、ツーリスト・トロフィー、タルガフローリオなど数々のレースを制しています。
50年代から60年代においては、イギリスの警官がスピード違反のクルマを止めた際に「スターリングモスにでもなったつもりか」というのが常套句になったり、映画『007 カジノロワイヤル』にもゲスト出演をするなど、国民的な人気を得た人物でした。
止まることのなかったユニークなキャラクターで、数年前まではメルボルンで彼を見かけたかと思えば24時間後にはニューヨークのテレビ番組に出演などということもありました。
ハンドルを握る限り彼は疲れ知らずだったのです。
マセラティはスターリング・モスがブランドに与えてくれたものに感謝をし、今後も彼を忘れることはありません。
マセラティ S.p.A.
マセラティは、驚くべき個性を持つ唯一無二の車を製造しています。そのスタイル、テクノロジー、本質的に特別なキャラクターにより、マセラティは常に最高を求める人々の高い要望を満たし、自動車業界のベンチマークとなってきました。旗艦クアトロポルテ、スポーツセダンのギブリ、マセラティ初のSUVであるレヴァンテ、スポーツカーのグラントゥーリズモおよびグランカブリオは、そうしたヘリテージのアンバサダーです。マセラティのラインアップは、ガソリンエンジン、ディーゼルエンジン、後輪駆動、全輪駆動、最高級の素材、優れたエンジニアリングを備え、これまでにないほど完成されています。これら成功を収めた伝統のモデルは、デザイン、性能、快適性、優雅さ、そして安全性の観点から、イタリアのスポーツカーを再定義しています。
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