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3点式シートベルトを世界で初めて標準装備したボルボ アマゾンが60周年を迎える【ボルボ・カー・ジャパン】

2016年9月1日

3点式シートベルトを世界で初めて標準装備した
ボルボ アマゾン(Amazon)が60周年を迎える


永遠の美しさを獲得したボルボの名車「アマゾン」は、60年前に初めて世界デビューを果たしました。ギリシャ神話の女性戦士にちなんで名付けられたアマゾンは、今でもボルボの歴史における最もアイコニックなモデルのひとつです。


1956年9月の最初の週末に、スウェーデンのエレブルーでボルボの新型4ドアモデルが公開されました。そのエレガントな風貌は、ボルボのルックスに関するそれまでの一般的な認識を大きく覆すものでした。

イタリア、英国、そして米国のデザイン的特徴を取り入れたフォルムは、美しくて魅力的でした。デザインを担当したのは26歳のヤン・ウィルスガールドです。彼はこれ以降ボルボのデザイン部門を長年にわたり指揮し、140、240、700シリーズを手掛けるとともに、800シリーズのパーツもデザインしました。ヤン・ウィルスガールドは、先日86歳で自身の生涯に幕を下ろしています。



PV444に続き、戦後2台目のボルボとなった新型車は、モデル名の綴りに“s”を使ったアマゾン(Amason)と命名されました。この名前は、ギリシャ神話の女性戦士(Amazons)に由来するものです。しかし、生産が開始される前の1957年、グローバルな販売を視野に入れ、モデル名はアマゾン(Amazon)に変更されました。あいにく、原動機付自転車とオートバイのメーカーであるドイツのクライドラーも、同時期にAmazoneという原動機付自転車を発売していました。そのため主要な市場ではこの名前を使用することができませんでした。

北欧市場ではこのボルボをアマゾンと呼ぶことに合意が成立しましたが、世界のその他の地域では、標準モデルが121、スポーツモデルが122、標準エンジンを搭載したエステートモデルが221、スポーツエンジンを搭載したエステートモデルが222と呼ばれました。しかし60周年を迎えようとする現在では、この魅力的なボルボは世界中でアマゾンと呼ばれています。

発売されてからの数年間、アマゾンはエレガントなボディカラーが採用されていました。1957年から1959年にかけては、全てのアマゾンがツートンカラーで仕上げられていて、ブラック、ミッドナイトブルーまたはルビーレッドのボディにライトグレーのルーフを組み合わせた仕様のほか、ライトグレーのボディにブラックのルーフを組み合わせた仕様が用意されました。1959年以降は、単一色のアマゾンが購入できるようになり、1961年にツートンカラーモデルの生産は終了しています。

1958年には、よりパワーを求める顧客のため、アマゾン スポーツが開発されました。SUツインキャブレターとさらに鋭敏なカムシャフトを備えたエンジンは、最高出力85hp(SAE)を発生しました。

1959年には、ボルボが特許を取得した3点式シートベルトが世界で初めてアマゾンに標準装備されました。安全装備がまだそれほど重要視されていなかった時代のことです。この画期的な3点式シートベルトによって、これまでの57年間に100万人以上の命が救われたと推定されています。

1962年2月、アマゾンのエステートバージョンが導入されました。デュエット バンとは大きく異なるこのアマゾンのエステートは、米国由来の水平分割式テールゲートを備えたエレガントな車でした。

アマゾンの最もスポーティなバージョンが123 GTで、1800Sスポーツカーのエンジンが搭載されました。123 GTは1967年モデルとして投入された1台で、最高出力115hpを発生するとともにオーバードライブを備えていました。ドアミラーはフロントフェンダーに装着。追加ライトが標準装備され、ダッシュボード上部にはタコメーターが設けられました。

1966年には、ボルボのラインナップに140シリーズが導入されましたが、アマゾンの開発も継続されていました。アマゾンと140シリーズは、どちらも1969年モデルに新型のB20エンジンを搭載しています。排気量が増大したことでトルクと出力がアップしました。



1956年から1970年の間にアマゾンは667,791台が生産され、当時において、最も生産台数の多いボルボ車となりました。アマゾンは、ボルボの視点を国内市場から海外市場へ移行させたため、アマゾン全生産台数のうち60%がスウェーデン以外で販売されることとなりました。

さらに、アマゾンはスウェーデンの国外で組み立てられた初のボルボでした。1963年、ボルボの工場がカナダのハリファックスにオープンしたことで、北米市場向けの車はそこで生産されるようになりました。

後に、南アフリカ共和国のダーバンにも組み立て工場が完成したほか、ベルギーのゲントには最大の投資が行われました。スウェーデンは当時EECに加盟していなかったことから、欧州関税同盟にうまく入り込むことが重要とされていたのです。1965年、ゲント工場は年間14,000台の生産能力を備えてオープンしました。

1970年7月3日に、最後のアマゾンがトースランダで製造されました。ダークブルーのこのモデルは、後にボルボ ミュージアムとしてオープンする、ボルボのカーコレクションに加えられました。

ボルボ アマゾンについてあまり知られていない10の事実 :
1.スウェーデンで販売された約297,000台のアマゾンのうちの約8%がまだ現役です。最も一般的なのは1966年モデルで、今でも4,804台が登録されています。スウェーデンでは合計24,282台のボルボ アマゾンが登録されています。

2.ニューヨークの広告制作者のアミール・ガルガノは、1962年にボルボ社の広告業務を委託されました。彼はボルボがほとんど何にでも耐えることができるという結論を出し、これをブランド独自のセールスポイントとしました。広告映像は、砂利道を激しく走るアマゾンを映し出しています。この広告のクライマックスでは、「あなたは怒りをぶつけるようにこの車を走らせることができます。心理療法より安上がりです」という今日では考えられないような明快なメッセージが示されました。

3.米国の元国務長官および統合参謀本部議長のコリン・パウエルは、大の自動車ファンです。彼は、1966年のアマゾン エステートを含む数台のクラシック ボルボを所有しています。1993年に彼が統合参謀本部議長のポストを離れたとき、ビル・クリントン大統領とアル・ゴア副大統領から、すぐレストアが必要なアマゾンが贈呈されました。

4.アマゾンには、トラック用のV8エンジンを進化させたタイプのものを搭載する計画がありました。5台のプロトタイプが製造されたと言われていますが、最終的にボルボの経営陣は、V8がアマゾンには適さないということに気付きました。6気筒バージョンがなかったことを考えると、4気筒からV8への飛躍はあまりにも大胆な挑戦でした。

5.カナダのハリファックスにあるボルボの組み立て工場で製造されたアマゾンは、ボルボ カナディアンの名前で市場に投入されました。

6.リチャード・ニクソン大統領を辞職に追い込んだウォーターゲート事件を映画化した「大統領の陰謀」において、ロバート・レッドフォードが演じるワシントンポストのリポーター、ボブ・ウッドワードは、ホワイトのアマゾンに乗っていました。

7.スウェーデン警察は、その後、市販の普通車にも装着される装備をボルボと共同開発しました。警察車両では、ディスクブレーキ、ブレーキアシスト、ラジアルタイヤが市販車よりも数年早く装着されました。警察仕様のアマゾンにはリアウインドウファンが装備され、ステアリングホイールの横には、フロントウインドウクリーナーとフロントウインドウワイパーの最速設定を接続するスイッチが備わっていました。

8.1963年のジュネーブモーターショーのカタログに、ベルギーのコーチビルダーのジャック・クーンが製作したボルボ122Sカブリオレが掲載されました。美しい改造モデルで、ウインドウフレームなしのドア、後方が緩やかに丸みを帯びるドア開口部、および前方に傾斜するリアライトを備えました。カタログを見た印象では市販車のようでしたが、造られたのはわずか4台で、ボルボがその取り組みに関与したことはありませんでした。

9.ボルボのファクトリードライバーのカール=マグナス・スコフは、122Sを駆り、ギリシャのアクロポリスラリーで1965年に優勝を飾りました。

10.アマゾンによってモデルレンジが拡張されて、ボルボは1958年にスウェーデンのベストセラーブランドの地位を取り戻しました。それ以来この地位を維持しています。


2015年のボルボ・カー・グループ
2015年の会計年度において、ボルボ・カー・グループは66億2,000万クローナ(2014年度は21億2,800万クローナ)の営業利益を計上しました。同年度の売上は1,640億4,300万クローナ(1,375億9,000万クローナ)でした。2015年度の世界販売台数は過去最高の50万3,127台に達し、2014年度と比較し8%増となりました。この史上最高の販売台数及び営業利益の実績により、ボルボ・カー・グループのグローバル改革プランへの投資は継続して実施されます。








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